たこ焼き/もうかる/おばちゃんの時計

<たこ焼きの風景>
 私が3年間住んでいた大阪の下町には多くのたこ焼き屋があった。普通の住宅の一角で営業している店も珍しくない。そういう店には、子供が描いたタコのイラストが看板代わりに貼ってあったりして微笑ましい。一番安い店は、15個で150円。たこは入っているものの、口に入れて感じるのはほとんどが甘いソースと粉の味だ。それでも焼きたてはおいしいので、店の前には子供たちや中高生の姿が絶えない。狭い店内で3人のおばちゃんおじちゃんが、口も手も片時も休ませずに焼いている。
 その店は、かつて商店街だった通りにある。両側の建物は閉店してどれだけ経つのかわからない。向かいの元店舗は屋根が大きく崩れ、歪んだシャッターの隙間から野良猫が出入りする。その通りと直角に交わる公設市場は、道路に面した2店舗が営業するのみで、奥は昼間でも真っ暗だ。商店街としての賑わいは過去のものとなってしまっているとはいえ、桜、藤、楓、観葉植物など、緑は年中絶えることがない。空き店舗の錆びたシャッターの前に何メートルにもわたってビールケースが階段状に置かれ、近所の人が盆栽や鉢植えを並べているからだ。私の娘が片言で花の名前を言っていると、鉢植えの手入れをしていた年配の女性が、「よう知っとるなあ」と言いながら剪定した椿の実を娘に手渡してくれた。幼い孫と遊びながら店番をする女性、どこかの家から聞こえる三味線の音色…。たこ焼きというと、今でもこんな風景を思い出す。

<もうかる>
 大阪に住んでいる時に気づいたのは、こちらの人には、日常生活における損得についての関心を、関東の人よりも率直に表す傾向があるということだ。
 たとえば、ある家の前でケーブルテレビの営業マンがインターホン越しに「光」の利点を語っていた。いつまでも終わらない営業トークを遮り、奥さんが「それで、何かおいしいことあるの?」と鋭く言った。
 こんな光景も見た。行楽地でアイスを買うため小学生の女の子が並んでいた。アルコールが入った父親が、娘に「『おっちゃん多めに入れて』って言ったか?」と大声でたずねた。娘が首を横に振ると、再び「おっちゃん多めに入れてって言いや」と繰り返す。娘が恥ずかしがって飛びはねながら「いや~」と拒否すると、「そういうことは言っておくもんや!」
 全般的に、もったいぶることや回りくどさを嫌う合理的な気質を感じた。
 
 また、戯画化された大阪人のイメージの代表として「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」というやりとりがあるが、確かにかの地では「もうかる」という言葉が気軽に使われる気がする。ただし、その使われ方は少し意外だった。
 たとえば、ある店で高齢の女性が品物を手に取って「こんなに安くていいの?」と店員に尋ね、「いいんですよ」という答えに「もうかりまっか?」と気迫のある低音で聞き返していたのを見た。近所の奥さんは、携帯電話の販売店で大幅に料金が安くなる料金プランを知り、思わず「それでもうかるの?」と聞いたと話していた。私が聞いた範囲では、価格設定への疑問というか関心がこめられていることも多いようだ。その場にいないとわかりにくいニュアンスである。

<おばちゃんの時計>
 「○○のおばちゃん、何持っとるの?」
 隣で信号待ちをしていた中年女性が、いきなり声を上げたので驚いた。しかし、横断歩道の向こう側にいる知り合いへの呼びかけだとすぐにわかった。そこには、直径30cmぐらいある巨大な目覚まし時計を手に提げたおばちゃんが立っていたのだ。
 「これな、電池入れようと思って」
 「替えるだけやったら、電池買ってくれば……」
 「いや、孫にやろうと思って」
 道路越しに会話は続く。最初に話しかけた女性が納得したように言う。
 「そっか、うちもそういうの探してたんよ」
 そして、声を落として独り言のように続けた。
 「よく見えるな……2時半や」
 最後の一言に「関西的なノリ」の精髄を見た。